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信濃の国 信州上田市よりアルプスを撮る

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、東山道に位置する。領域は現在の長野県とほぼ同じ(旧神坂村・旧山口村が岐阜県中津川市に編入される等の微妙な差異はある)。信州(しんしゅう)と呼ぶこともある。延喜式での格は上国、中国。万葉集での枕詞は「みすずかる (水薦苅)」
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7世紀の令制国発足により佐久、伊那、高井、埴科、小県、水内、筑摩、更級、諏訪、安曇の十郡を以って成立し、現在の長野県のうち木曽地方を欠く大部分を領域にした。信濃は、はじめ科野と書いた。

養老5年(721年)6月26日に南部を諏方国として分置した。天平3年(731年)3月7日に合併して元に復した。

平安時代から鎌倉時代に、美濃国から木曽地方を編入し、筑摩郡の一部としたが、その正確な時期はわかっていない。また戦国時代には、南信州を支配下に治めた武田信玄によって三河国加茂郡から現・根羽村の地域を編入し伊那郡の一部。

国府は、信濃国の国分寺が現在の上田市国分にあり、『和名類聚抄』が筑摩郡に国府があると記していることから、奈良時代から平安時代にかけてのどの時点かに小県郡から筑摩郡に移転したと推測される。国府移転の経緯については上田から直接、松本に移ったとする「一遷説」と上田から諏訪へ移りその後、松本へ移ったとする「二遷説」があるが、前者のほうが有力視されています。

小県郡の国衙(国司の政庁)は現・上田市内の中でも信濃国分寺からさほど遠くはない範囲内にあったと比定されている。一方、松本には「国府町」という地名があるが、筑摩郡の国衙は現・松本市と推測されることを理由に、松本駅前の一町名として名づけられたもので、正確な国衙比定地を示す地名ではない。また松本市内には国司のものと伝えられる幾つかの墳墓が残る。

平安中期の944年、天災により国衙が倒壊し国司が圧死した記録が残る。

鎌倉初期には善光寺近傍に「後庁」が建てられ、国司の目代が置かれた。1335年には、建武の新政に反旗を翻した諏訪頼重が国衙を襲撃し戦火で消失、以後再建されることがないまま、守護を務める武家にその権能が委譲され、次第に形骸化していった。

守護所の位置は守護の交代によって移り変わるが、水内郡善光寺後庁、小県郡塩田、埴科郡船山、水内郡平芝、筑摩郡井川などに置かれた。

信濃の国は 十州に
境連ぬる国にして
聳ゆる山は いや高く
流るる川は いや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺
四つの平は 肥沃の地
海こそなけれ 物さわに
万ず足らわぬ 事ぞなき 
四方に聳ゆる山々は
御獄 乗鞍 駒ケ岳
浅間は殊に 活火山
いずれも国の 鎮めなり
流れ淀まず ゆく水は
北に犀川 千曲川
南に木曽川 天竜川
これまた国の 固めなり
木曽の谷には 真木茂り
諏訪の湖には 魚多し
民のかせぎも 豊かにて
五穀の実らぬ 里やある
しかのみならず 桑とりて
蚕飼いの業の 打ちひらけ 
細きよすがも 軽からぬ
国の命を 繋ぐなり

尋ねまほしき 薗原や 
旅のやどりの 寝覚ノ床 
木曽の桟 かけし世も 
心してゆけ  久米路橋 
くる人多き 筑摩の湯 
月の名に立つ 姨捨山 
しるき名所と 風雅士が 
誌歌に詠みてぞ 伝えたる
旭将軍 義仲も 
仁科の五郎 信盛も 
春台 太宰先生も 
象山 佐久間先生も 
皆此国の 人にして 
文武の誉 たぐいなく 
山と聳えて 世に仰ぎ 
川と流れて 名は尽ず
吾妻はやとし 日本武
嘆き給いし 碓氷山 
穿つ隧道 ニ十六
夢にもこゆる 汽車の道
みち一筋に 学びなば 
昔の人にや 劣るべき 
古来山河の 秀でたる 
国は偉人の ある習い